夕方5時近く、御茶ノ水の眼科の待合室で、他の医師の診察が次々に終わり、わたしの目の執刀医に患者が集中している。待合室の各医師の診察室の前にモニターが据え付けられていて、受付番号が表示され、あと何人、どのくらい待つのかがわかるようになっている。2時の予約で行って、4時を回った時点で、現在の診察は1時半予約の患者だ。
診察の終わった医師の、順番を表示するモニター画面が、待合室の患者に配慮してか、オリンピックの画面に切り替わった。映っているのは、男子高飛び込みという競技で、高いところの飛び込み台から、ふたりの選手が同時に数回回転して、水中に飛び込む。
率直に言って、見ていて心地のいいものではなかった。既に2時間待たされているという苛立ちもあるだろうが、それだけではない・・・二人の人間が全く同じ動作をするという、なんというか機械化された人間を見る居心地の悪さ、更に言えば薄気味の悪さを感じてしまう。わたしは決して同性愛差別者ではないし、自分でも、美しく若い男性に(性的に)魅力を感じることさえあるが、競技が終わった後、若くつやつやした、ほとんど全裸の男性同士が抱き合っているのを見て、嫌悪感を感じた。
おそらくこれが女子選手であっても同じことだったろう。特にシンクロナイズド・スイミングのように、複数の人間が寸分違(たが)わぬ同じ行為・動きを行うことが、いかにわたしの審美観とかけ離れているかを改めて認識する。
男子水泳自由形の場面も映されたが、どうしても彼らが、西部邁ではないけれども、「サイボーグ」のように思えて目を背けたくなる。
スポーツ選手(最近はアスリートと呼ぶらしいが)は、いかに天然自然の人体=肉体から遠ざかるかが目的ではないのか。
いずれにしても、若く、色艶がよく、「健康」という観念を具現化したような若い選手たちを視ていると、オリンピックというものは、少なくともわたしにとって、「美」とは最もかけ離れた場所・行為だと思わざるを得ない。
若いこと、力強いこと、健康であること、彼ら、彼女らのこれら身体的、形而下的な属性は、当然彼らの精神の在り方にも影響を与えているのだろう。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」── 仮にオリンピックの精神が、この言葉に限りなく近いとすれば、それは限りなくわたしの美意識とは隔絶している。
(精神も含めた)「健康・健全さの礼賛」「統制のとれた動作」「国威発揚」「諧調・均整・均衡への傾斜」・・・これらがどうしても、ファシズム=軍国主義と結びついてしまう。或る人はオリピックを「健康の祭典」と揶揄した。パラリンピックの選手たちを、誰が「障害者」と見做すだろうか。
◇
目の調子は相変わらず良くない。けれども、3時間待って5分間診療の医師は、検査結果だけを以て、「経過は良好ですね」という。相変わらずこちらから目の霞みや視力がなかなか手術前の状態に戻らないことについては訊く余裕がない。この医師の患者が後20人ほど待っている。
アートのブログを再開して、つくづく目の大切さを実感したが、やはりいつもいうように、(経過の)説明なく、患者への質問なく、そしてこちらから質問もできない医師のために、丸一日潰されるのはもう終わりにしたい。
なぜこうなるのか?つまりは医師が健康・健常だからである。
「病め医者 死ね坊主」という俚諺がある。これは、医者は病んでみて初めて目の前にいる「病み弱った者」の気持ちがわかり、坊主は死んでみて初めて遺された者の悲しみがわかるという庶民の怨嗟である。
健康であることはかならずしも罪ではない。けれども健康を礼賛することは決して好ましいことではない。健康礼賛は・・・限りなく罪に近い。
霞んだ眼のまま、推敲もままならず書く。
ー追記ー
ヒトラーは嘗て、レニ=リーフェンシュタールに「ベルリン五輪」の様子を『美の祭典』と銘打って映画化させたが、五輪は「健康の祭典」ではあるけれども、決して「美」の祭典などではない。(仮初にも「健康の祭典」と呼ばれるものが、「美の祭典」足り得るわけがないじゃないか。)