ブログのカバー・フォトを替えた。
はじめは英国のエディター兼アーティストのブログから拝借した下の、' The view from Hawker's hut ' ー(ロバート・スティーブン・ホーカー Robert Stephen Hawker. (1803 - 1875)= 英国の牧師・詩人の小屋からの眺め)という写真を使っていたのだけれど
今はなんとなく眩い日差しの下に青く広がる海という気分ではない。
そこで昨日からソール・ライターの、1957年にニューヨークで撮影された「板の間(あいだ)」というスナップ・ショットを使っている。
ソール・ライターは以前から好きな写真家で、今年7月に渋谷のBunkamuraで展覧会があったのだが、結局行けずじまいになってしまった。
その他にも東京ステーション・ギャラリーで行われたシャガールの陶器のエキシビジョンも遂に観ることができなかった。
外に出るということが年々困難になってゆく。
誰かが、「旅をするということは、自分にとって死に場所を探しに出かけるようなもの」と書いていたけれど、現実に旅をすることのできないわたしは、無意識に映画や絵の中に「死に場所」を尋ねているところがある。無論そのほとんどは既に地上から消滅してしまった風景なのだけれど。
最晩年の尾崎放哉は、病院で死ぬくらいなら、この(小豆島の)青い海と青い空の中で死にたいと荻原井泉水宛ての手紙に書いている。
「ホーカーの小屋」のような風景もまた、わたしにとって憧れの「死に場所」のひとつであった。
ギュスターヴ・ドレの描いた「山の川」にもやはり強く心を惹かれる。
このような場所で、たったひとりで、ヴァージニア・ウルフがしたように、ポケットに小石を詰めて、流れる水の中に身を沈めたいという想いに駆られる。
父の田舎(信州)で、数年前ひとりの老いた女性がやはり川で自死した。
渓流であっても、凍えるような寒さの中でなら死ねるのだ。
わたしが夢想する「死に場所を求めての旅」とは、現実的・具体的な「場所」の発見、遭遇ではなく、どのような場所に魂を憩わせたいかという、心の彷徨であり、感情世界の出来事なのだ。
かつて西行は
願 わ く は 花 の 元 に て 春 死 な む そ の 如 月 の 望 月 の こ ろ
と詠った。
美を希求する心とは、あらまほしき魂の置き処を探す果てしのない営みであるのかもしれない。
「死ぬことを 持薬を飲むがごとくにも われは思へり 心痛めば」
と、かつて啄木が詠い、死を想うことで心慰められたように、古いフィルムの中に、或いは一枚の絵の中に、死の安らぎにも等しい慰安を見出すことが、わたしにとって「美」に求めてやまないものであるのかもしれない。
映画『蟹工船』(1953年)で、船員のひとりである山村聰が、甲板で若い人夫と話をするシーンがあって、文学好きの若者が、武者小路と啄木がいいというと、彼は、「啄木か・・・死ぬことばかり考えているようじゃ人間おしまいだな・・・」と言い、次の瞬間甲板から身を躍らせる。
彼もまた、雨に濡れた鋼鉄のように凍てついた色を見せる北の海こそ、と心定めて船に乗ったのかもしれない。
・・・わたしにとって「新たな年」を想うことは、とりもなおさず「死」を想うことに他ならない。
はじめは英国のエディター兼アーティストのブログから拝借した下の、' The view from Hawker's hut ' ー(ロバート・スティーブン・ホーカー Robert Stephen Hawker. (1803 - 1875)= 英国の牧師・詩人の小屋からの眺め)という写真を使っていたのだけれど
今はなんとなく眩い日差しの下に青く広がる海という気分ではない。
そこで昨日からソール・ライターの、1957年にニューヨークで撮影された「板の間(あいだ)」というスナップ・ショットを使っている。
Through Boards, ca 1957 © Saul Leiter |
ソール・ライターは以前から好きな写真家で、今年7月に渋谷のBunkamuraで展覧会があったのだが、結局行けずじまいになってしまった。
その他にも東京ステーション・ギャラリーで行われたシャガールの陶器のエキシビジョンも遂に観ることができなかった。
外に出るということが年々困難になってゆく。
誰かが、「旅をするということは、自分にとって死に場所を探しに出かけるようなもの」と書いていたけれど、現実に旅をすることのできないわたしは、無意識に映画や絵の中に「死に場所」を尋ねているところがある。無論そのほとんどは既に地上から消滅してしまった風景なのだけれど。
最晩年の尾崎放哉は、病院で死ぬくらいなら、この(小豆島の)青い海と青い空の中で死にたいと荻原井泉水宛ての手紙に書いている。
「ホーカーの小屋」のような風景もまた、わたしにとって憧れの「死に場所」のひとつであった。
ギュスターヴ・ドレの描いた「山の川」にもやはり強く心を惹かれる。
Gustave Doré. French (1832 - 1883) Rivière de montagne / Mountain river
このような場所で、たったひとりで、ヴァージニア・ウルフがしたように、ポケットに小石を詰めて、流れる水の中に身を沈めたいという想いに駆られる。
父の田舎(信州)で、数年前ひとりの老いた女性がやはり川で自死した。
渓流であっても、凍えるような寒さの中でなら死ねるのだ。
わたしが夢想する「死に場所を求めての旅」とは、現実的・具体的な「場所」の発見、遭遇ではなく、どのような場所に魂を憩わせたいかという、心の彷徨であり、感情世界の出来事なのだ。
かつて西行は
願 わ く は 花 の 元 に て 春 死 な む そ の 如 月 の 望 月 の こ ろ
と詠った。
美を希求する心とは、あらまほしき魂の置き処を探す果てしのない営みであるのかもしれない。
「死ぬことを 持薬を飲むがごとくにも われは思へり 心痛めば」
と、かつて啄木が詠い、死を想うことで心慰められたように、古いフィルムの中に、或いは一枚の絵の中に、死の安らぎにも等しい慰安を見出すことが、わたしにとって「美」に求めてやまないものであるのかもしれない。
映画『蟹工船』(1953年)で、船員のひとりである山村聰が、甲板で若い人夫と話をするシーンがあって、文学好きの若者が、武者小路と啄木がいいというと、彼は、「啄木か・・・死ぬことばかり考えているようじゃ人間おしまいだな・・・」と言い、次の瞬間甲板から身を躍らせる。
彼もまた、雨に濡れた鋼鉄のように凍てついた色を見せる北の海こそ、と心定めて船に乗ったのかもしれない。
・・・わたしにとって「新たな年」を想うことは、とりもなおさず「死」を想うことに他ならない。
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